2014年7月16日水曜日

国家賠償上の責任論での解決

ところが、一九七八年、水俣病認定患者数が急増したため、患者の認定要件を環境庁が変更し、ほとんどの患者が認定を拒否されることになった。それ以降、被害者は責任追及と法的救済を求める一方、政府は裁判所の和解勧告に応じなかったために、村山内閣時代まで、事態は解決の目処がたっていなかった。

国家賠償上の責任論では解決は困難であり、和解を含む話し合いに早期、最終的、全面的に解決を図るべく努力することで合意した与党三党は、細部のつめを環境調整会議(与党が省庁別課題を検討する場)に指示したが、各党の意見調整には時開かかかった。救済の範囲、具体的解決の方法などで立場は異なった。環境庁がこれまでの経緯を理由に、早期解決を図るとしても行政主導で行いたいと考えたことも、問題を複雑にさせた。

九五年九月、一時金の対象者と金額、救済対象者の判断方法、チッソ支援策などを盛り込んだ最終合意案「水俣病問題の解決について」が与党三党により提示されると、環境庁はこれを受け入れる決断をし、長官が熊本、新潟両県に謝罪した。他方、患者団体も、政府案の受け入れを表明したため、政府は一二月閣議で正式決定し、村山首相が「遺憾の意」を明らかにして、四〇年にわたる紛争に一応のピリオドが打たれた。

村山内閣の園田博之宣房副長官(政務)が熊本県出身であり、厚生省出身の古川貞二郎官房副長官(事務)も水俣病問題に長く携わってきたことも、問題解決にはプラスであった(村山富市「そうじゃのう」)。しかし、被爆者援護法、戦後五〇年の談話同様に、首相の決断がなければ、決着は難しかった。村山は、大島理森を環境庁長官に任命する際に、是非、水俣病問題には決着をつけてほしいと求めたという。

自民党の野中広務は、戦後五〇年の総理談話、被爆者援護法、水俣病問題など一連の問題への取り組みを評価し、村山内閣は自民党に迎合したのではなく、自民党が冷戦後も「そのしっぽをひきずって棚卸しができないでいた問題を解決する」ことで、社会党がこれまで追い続けてきた「反戦平和」「弱者救済」の理想を形にしたのだと述べている(野中広務「私は闘う」)。