2015年1月7日水曜日

親になるための教育を

時と場合を考えて行動するという能力は、人間として大切なものであるから、是非とも教えてほしい。これは原理を具体的な場合に応用するという、父性的な能力をつけるという意味でも大切な観点だと言うことができる。この観点は古記のアンケート調査のたいていの項目に当てはまる。最後に、教えるのが最も難しいが、「人間としての品位」ということも、基準として入れたいと思う。ここまでくると、小学生や中学生には難しいとは思うが、しかし完全には分からなくても、そういうことが大切なこととしてあるのだということを先生は語るべきである。いけない理由として、単に「他人に迷惑だから」というだげでなく、もっと人間として大切な「品位」とか「美しさ」「礼儀」「気品」「ふさわしい」などという観念を導入したいものである。こういうことを説明するのは、たいへん難しいことではあるが、それを避けていては、人間としての教育は成り立だないと思う。我々はもっと抽象的な徳目の教え方について研究をしなければならない。

個々の規則を定めてそれを形式的に守らせるという教育の方法ではなく、抽象的なモラルの原理を教えて、それを日常生活に応用する訓練をするというのは、父性を育てる上で非常に大切なことである。教師を育てる課程の中に、そういう徳を教える教授法を入れるべきである。道徳教育は反動だなどという間違った考えによって、大学の教育学部の課程の中に、そういう訓練が導入されていないということが、大きな問題だと思われる。道徳教育というと、命の大切さを教えるとか、自然にふれる体験をさせる、友だちと協力して何かをする、といった内容がうげる世の中である。いわばソフトな内容なら、受け入れられる。それは、今の若い女性が、結婚の相手として「男らしい人」とは決して言わないで、必ず「優しい人を」と言うのと、どこか共通のものが感じられる。しかしそれは女性的、母性的感覚からの発言であり、父性的な倫理の感覚ではない。

もちろん命の大切さや優しさを教えることは大切である。しかし言うなればそれは母性原理からの人間教育であり、父性原理からする道徳教育とは言いがたい。父性原理からする道徳教育とは、人間としての品位を保ち、欲望や感情のコントロールをし、善悪の区別をつける力を養うことである。とくに、してよいことと、絶対にしてはならないことの、げじめを教えることは最低限必要なことである。これは単に優しさだけではなく、父性的な厳しさを必要としている。善悪を教えると言うと、すぐに価値観は人さまざまで、何が善くて何が悪いかは簡単には言えないから、そういうことは教えるべきではないと反論する人がいる。しかし善悪の区別を教えるとは、具体的に何が善い、何が悪いということを教えるというよりは、善悪の区別というものがあるのだということを教えることである。

その例として、最低限人間として守るべき徳目を教えると同時に、具体的にいろいろなケースを出して、生徒に討論させ、考えさせるという教育がなされるべきである。日本人が父性を取り戻すためには、今、学校教育の中にもっと父性原理を導入すべきである。子どもを育てる親としての仕事は、じつは非常に高度な専門的な仕事である。誰でもやっているから、誰にでもできることだと思うのは錯覚である。誰もがやっていても、その仕事を正しく上手にやっているわけではない。その証拠には、子どもが不良になったり、不登校になったり、いじめつ子になったり、心身症を起こしたり、子どもに背かれたりと、親子の関係がうまくいっていない家族のほうが多いくらいである。子どもの育て方に失敗したと述懐する人は非常に多い。子どもの育て方について教えてくれる人がいない、教えてくれる機関がないのである。