2013年10月29日火曜日

サウジアラビアの市民運動は大きくならない

王族それぞれの考え方に隔たりがあるのはなぜなのでしょうか。サウジアラビアは十八世紀にいまの首都リヤドの近くで部族を率いていたサウード家と、宗教的指導者だったワッハーブ家、一万の一族が団結したところから始まりました。このときにサウード家は政治を、ワッハーブ家は宗教をそれぞれ統轄するという合意がなされました。それから周辺の部族と戦い、和解しながら、二十世紀初頭にいまのサウジアラビア王国となりました。このときに後見人的な役割を果たしたのはイギリスでした。サウジアラビアという国そのものの歴史は意外と浅いのです。サウジアラビアは湾岸最大の面積を持つ国であり、イスラム教の一一人聖地であるメッカとマディーナが国土のなかにあります。そのため、宗教的指導者であるワッハーブ家の権威は強力なものです。サウジアラビアが親米でありながら宗教的に保守的なのは、ワッハーブの保守的な考え方を反映しているからです。

しかし、ワッハーブ家の人々も現代では豊かな石油資源を持つ大国の支配者です。サウジアラビア国内ではお酒を飲んではいけない、女性はクルマの運転をしてはいけないなどの戒律を守って暮らしていますが、実はヨーロッパではハメを外して遊んでいることがよく知られています。二〇一〇年には、ある王子が、イギリスで、酔っぱらったあげくにゲイのパートナーだったと思われる男性を殺してしまうという事件まで起こしています。国内では厳しい教えを国民に押しつける一方で、権力を持っている人たちは国外で自由を楽しんでいることが徐々に知られるようになりました。しかし、ワッハーブ家の権威はサウジアラビアの求心力の一つになっています。国としては厳しい戒律を国民に求めることで、国への帰属意識や忠誠心を高めようとしています。その結果、王族のなかでも考え方の振れ幅が大きくなってしまっているのです。

多くのサウジアラビア国民は経済的にうるおっている現在の暮らしに満足しています。政治には無関心で、宗教的な戒律に窮屈さは感じつつも、消費生活を謳歌する中産階級が主流を占めています。そして、彼らとは別に、先述した少数派のシーア派の人々が貧しい暮らしを強いられているという状態です。二〇一一年三月十一日、日本で東日本大震災が起きてからは、「アラブの春」の動きはあまり報道されなくなりました。もちろん、東日本大震災は世界的に大きなニュースですから優先されて当然ですが、同時に、世界の関心が失われたことで、「アラブの春」の盛り上がりも下火になってしまったということはあると思います。サウジアラビアでも、奇しくも三月十一日に「怒りの日」と名付け九大規模なデモが行われました。このときはフェイスブックを使い、一万人近くの人たちがそのデモに賛同しています。しかし、当局の弾圧もあってすぐに沈静化してしまいました。

サウジアラビアで政府に対して異議を唱えているのは、経済的な格差と宗教的な差別を強いられているシーア派の人々と、政府によるしめつけを嫌う中産階級のリベラルな人々です。しかし、潜在的に不満を持っている人たちはいても、それを声に出したり、行動として示したとたんに、弾圧の対象になってしまいます。サウジアラビアにも人権活動をしている人たちはいます。たとえば、サウジアラビアでは女性が車の運転をすることは禁じられています。しかし、二〇一一年、ユーチューブにサウジアラビアの女性が車を運転している映像がアップされ、大きな話題になりました。運転してた女性はサウジアラビアの警察に逮捕され、十日間拘留されました。しかし、その後も彼女はフェイスブックで予告し、運転をしています。二度目、三度目は罰金刑で済んでいます。少しずつサウジアラビア政府の態度も軟化してきているようです。いまも彼女のアラビア語のフェイスフッターページには二〇〇〇人以上の参加メンバーが登録されています。

私の友人にもサウジアラビアで育った女性がいます。父親はパレスチナ人ですが、裁判官をしていました。ほかにも父親がイラク人で外交官、母親がナースという友だちもいます。インテリ家庭に育った彼女たちもサウジアラビアでの生活には息苦しさを感じると言っていました。パレスチナ人の友人は結婚してから、サウジアラビアを出てアメリカに行きました。サウジアラビアのあまりにも保守的な空気に息苦しさを感じている人はたくさんいると思いますが、サウジアラビアが変わっていく可能性は低いと思います。世界中が産油国であるサウジアラビアの今のままの政治的な安定を求めていますし、国民の生活も一部の人たちをのぞけば経済的にも恵まれています。息苦しくなったらヨーロッパに1ヵ月くらいバカンスに出かけて羽を伸ばすということができる人たちが少なくない。結果的に、いまの体制を容認する人たちが多数派なのです。