2016年4月4日月曜日

ユーロ市場での短期・中長期資金調達ブームの点火

企業環境が激変しつつあること(カーター政権期の二桁インフレとレーガン治世下のその鎮静化、日本、欧州等との海外競争の激化、技術革新の急テンポこれらの要因から米国企業は収益力回復、企業体質の効率化、製品開発戦略の見直しに迫られた)。

レーガン政権下の企業優遇・活力振興策(八一年減税法、投資税額控除制度、加速度償却制度、反トラスト法の種々な緩和措置-これらの要因から企業手許資金の豊富化、合併・買収の容易化などの規制緩和が生まれた)。

七五年のメーデー(証券売買委託手数料自由化)から始まって八〇年代前半に燃えさかった金融革命は、商業銀行群の生き残り戦略を賭けたハイリスクーハイリターン戦争を惹起し、企業は国内金融調達面での多様化を満喫することとなったし、ユーロ資本市場の隆盛によって海外でも巨額資金の入手は容易になった。

二度のオイル・ショックや二桁インフレはエネルギー資源確保や不動産投資へと米国企業の目を向けさせることになった(しかし八〇年代中ごろより石油価格の反転、米国景気の不透明化から、石油・不動産の両業種は豊作貧乏の農業と並んで不況をかこつこととなり、中堅クラスの銀行倒産も目立つようになった。

米国企業の競争力強化のためプロダクト・ラインのアッド・イン(改良・高度化・広域化)とフィル・イン(未着手や他企業依存商品ラインの充足・補充・拡張)。などが盛んに行なわれるようになったことがあげられよう。

しかし、国際金融的に重要なのは、レバレッジド・バイアウト(Leveraged-Buy-Out)の盛行、税法上の特典利用、シャング・ボンド発行のブーム、ユーロ市場での短期・中長期資金調達ブームの点火である。

2016年3月3日木曜日

ECUの魅力とは

ECUは最初は単なる計算単位として使われていた。しかしECUはしだいに金融資本市場において取引手段として使われるようになった。まず、銀行がECU建ての預金を作る。その預金をつかって融資を行ったり、債券の発行や資本取引を行ったのである。その対象はユーロ市場であった。ここで言うユーロ市場という言葉は、単一通貨ユー-ロとは関係ない。ユーロ市場とは、ヨーロッパにおける資本通貨取引市場であって、世界中から資金の集まる巨大な自由市場である。

ここでのECU債の発行やECUによる取引は爆発的な伸びを見せたのであった。ECUの魅力が高まるほど、ECUへの需要が増え、銀行はECUを作っては融資を行う。現代の錬金術のゆえんである。どうしてECUは人気があるのか。第一に、ECUはバスケット通貨として抜群の安定性がある。最強の通貨マルクを核に作られた統一通貨であるから、参加国のある特定の国の通貨が不安になっても、ECU全体の価値にはほとんど響かない。いざとなればEMSの介入もある。

第二に、バスケット通貨であるから為替交換のコストを削減できる。こういったメリットに乗って、固定利率債、変動利率債、ゼロークーポン債、転換債、ワラント債等のECU債が発行されたのであった。

このようなECUの魅力はそのまま現在のユーロに引き継がれていく。今度はユーロ市場におけるユーロ債の問題である。ユーロは最初からヨーロッパの公的に認知された通貨として船出した。国際通貨制度の非嫡出子ECUは、認知されるまでに大変な苦労をした。日本もECUを通貨として認知するのに慎重であった国のひとつである。日本の優秀な大蔵官僚もECUという「変な通貨」にさぞ戸惑ったことだろう。それに比べるとユーロは幸せな通貨である。

いま一つは、ECUを利用する経済仁体と枠組みがEC共同体という形でしっかりりえられていたということである。具体的には、ECUはEMS加盟九力国の外貨準備と金の保有高の二〇パーセントを裏付けとして創出される。この点が同じ「第二の通貨」といっても協定だけで資産の裏付けのないSDRと違うところである。

2016年2月3日水曜日

インドネシア・軍政一致の開発体制

家族・同族による閉鎖的経営支配という「前近代的」体質をいまだ払拭してはいないものの、わずか二十数年にして巨大な富を築き上げた財閥の実力と旺盛な経営活動は、たしかにタイ経済近代化の主役というにふさわしい。民族系企業の力量は、華僑・華人系のそれに比べればいまだ弱いとはいえ、セメント、鉄鋼、機械、紙・パルプ、タイヤ、貿易部門に、主力企業のみで二一社をもつサイアムーセメント・グループは、タイの基幹産業の中核に位置する民族資本である。

経済サクディナー制のもと、官僚の庇護をふんだんに享受してきたタイ企業も、その経営規模を拡大し、業種を多様化するにいたった現在、旧来の官僚支配を次第に栓格と感じるようになっており、経営の自律化を求めてそこからの脱却を図っている。官僚もまた、巨大化した企業グループをサクディナー制的な対応で御していくことはもはや有効ではないことを認識している。

国家的規模での開発計画を策定し、これに企業家の積極的な協力と参画をうながしながらより組織的な官主導型の発展をつづけるという、体系的な両者関係が形成されつつある。その意味で、タイはサクディナー制的官僚体制から職能的テクノクラート体制へと転換をとげようとしている。この転換の成功いかんに、タイがNIES型国家たりうるか否かの鍵が潜んでいるようにみえる。

オランダの植民地支配からの独立を指導したのは、スカルノである。彼が大統領の地位にあった時代のインドネシアは、政治的には揺れの激しい混乱期にあり、経済的には恒常的な財政赤字と高インフレの低迷期にあった。独立直後には数多くの政党が生まれ、彼らが相互に競い合う複数政党制の時代を経験した。

しかし、その後の政治的混乱の収束期を経て、政党政治の影は急速に薄くなり。スカルノの「指導された民主主義」の時代に入っていった。この時代のインドネシア政治は、スカルノという傑出した民族運動指導者である大統領、民族独立闘争の直接のにない手であった軍部、さらに当時東南アジアで最大規模を誇ったインドネシア共産党(PKI)、この三者のバランスの上に成立するという微妙な構造をもって、その特徴としていた。