2014年12月3日水曜日

韓国ジャーナリズムの成熟

『韓国人がみた日本を動かしているもの』朝鮮日報編サイマル出資ご芒人は自分の顔を自分でみることはできない。日本人の何たるかは、異文化の鏡に映しだされるその姿を眺めて、これを確認するよりはかない。ベネディクトの『菊と刀』に始まりヴォーゲルの『ジャパン アズ ナンバーワン』(一九七九年、ティビーエスーブリタニカ)にいたるまで、外国人の手になるおびただしい数の日本人論が出版されてきたのは、日本人の自己確認への欲求がそれだけ強いものであったことを物語っている。

外国人の眼に映る自国像にいささか神経質なこの傾きの中に日本人の自信喪失をのぞきみることもできようが、自己確認が未熟なままにとめどもない国際化に踏み込みつつある現状を顧みるならば、この「神経質」は大いに推奨されて然るべきものであろう。しかし本当の自己を確認するのには、多面鏡が要る。鏡に映る前面だけをみていたのでは、背広の背部のはころびには気がつかない。これまでの日本人論が、イー・オリョン氏の『「縮み志向」の日本人』(一九八二年、学生社)などを数少ない例外としてほとんど欧米人のものであったというのが、われわれの自己確認の危うさを暗示している。

それでは客観的に日本を見据えたものが秀で九日本人論かといえば、そうとばかりもいえない。日本人をどう捉えるかが、書き手の自己確認にとってどうしても避けられないという、そういう切実さがあってこそ、その日本人論によってわれわれもまた真剣な自己確認を迫られるのである。

私か『韓国人がみた日本』をあまたの日本人論の中で出色だとみなす理由がここにある。長らく韓国のことを勉強してきてこれほど私を動かした本はない。本書のもとになっだのは、『朝鮮日報』が一九八三年に長期にわたり連載した「克日の道」シリーズである。現代日本を本格的に紹介した、独立以来の韓国で初めての試みであった。この「暴挙」は韓国の言論界に大きな反論を巻きおこした。日本を克服することを民族意識定立の命題にしなければならない理由はない、克日という表現それ自体が日本への劣等感をあらわすものだ、というのが反論の精神であった。

反論をのりこえて「知って然るべき日本」をあえて報じようとしたその真摯の中に、著者たちの自己確認への熱い心情を読み取ることができる。「われわれが不幸な過去に執着して日本を遠ざけるほど、その不幸な過去は繰り返されざるをえないという宿命的な認識のもとに、日本がどのような国であり、われわれにとってどのような意味をもつ民族であるかを把握しなければならない」という問題意識が鮮やかである。

「和」を貴び、「分」に安んじる日本人の伝統的価値を羨望するその姿勢は、そうしたものに低い価値づけしか与えない韓国人社会の不安定性の自己確認である。しかし同時に、近年の日本人のアジアにおける立ち居振る舞いの中に自民族優秀論への危険な傾きを嗅ぎ取る鋭い嗅覚は、確かに韓国人に固有のものであり、われわれの自己認識の怪しさを暴いてやまない。