2015年3月4日水曜日

復帰後の土地問題

加えてケネディ大統領は、大統領行政命令を改正して、米民政官を現役の軍人から文官に改、めることなどの施策も講じた。むろん、大統領の打ち出した新機軸は、先にふれたケイセン調査団の勧告に基づくものであった。ところで、この頃、日米安全保障条約が、沖縄には適用されていなかったこともあって、ベトナム戦争に対して、沖縄では、それほど大きな反対運動は起きていなかった。しかし、長崎の佐世保基地と同じように、沖縄でも基地従業員たちは、戦死したアメリカ兵の死体を洗わされたり、遺体を袋に入れて米本国に送還する作業などもやらされていた。一部の港湾荷役の組合員たちが、LSD(上陸用舟艇母艦) へのベトナム向け物資の荷役を拒否したりしたが、大した盛り上がりにはならなかった。

ベトナム戦争当時、米軍基地周辺の繁華街は、ケバケバしいネオンがこうこうと輝き、「バケツで金を運んだ」といわれるくらい繁盛を極めたという。しかし、それはまたこのうえなく殺伐としたにぎわいでしかなかった。明日死ぬかもしれないという思いで自暴自棄に陥った若い米兵たちが、休暇で沖縄基地に戻ると、有り金を全部使い果たしたからだ。兵士たちは、休暇とはいえ、一瞬たりとも心理的緊張をゆるめることはできなかったようだ。基地周辺でバーを経営していたある女性は、「戦場より休暇で沖縄に来た兵士達は、死の恐怖におびえていて、何気なく後ろから肩でもたたこうものなら、反射的に戦場での仕草で自分の身を守る構えをしたものです」と記録している。

復帰時点のいろいろな記録を読み返すと、いかにして沖縄に安保条約を適用するかについて、ずいぷんと議論されている。それまで沖縄には、核も自由に配備できただけでなく、基地の使用毛自に田であった。それだけに、この条約を適用することによって、日本本土と同じように拘束されるのは好ましくない。というのが米軍側の考えであったからだ。これに対し、地元住民は、一日も早く米軍の不当な統治から脱却して、日本へ復帰することに望みをたくしていた。

しかし、いざ沖縄が日本への復帰を果たしたとなると、今度は、日本政府が、安保条約に基づいて住民の土地を軍用地として米軍に提供しなければならないことになった。そのため日本政府は、復帰直前の一九七一年一月に「沖縄における公用地等の暫定使用に関する法律」(略称「公用地暫定使用法」)を制定し、翌年五月一五日の復帰と同時にこれを施行した。この法律は、契約を拒否する地主の土地に対して、強制的に使用する措置を認めたものであった。したがって、復帰後、軍用地の大半は、形のうえでは日本政府と地主との「賃貸借契約」の関係となったが、その実質的内容は、復帰前とほとんど変わることはなかった。

日本政府が米国に提供している駐留軍用地は、前章でも述べたように、安保条約第六条及び日米地位協定の第三条と第四条の規定に基づいて提供されている。日本政府が米軍に土地を提供する場合には、原則として、日本政府(防衛施設局)がまず上地所有者と当該土地の賃貸借契約を締結して使用権原を取得し、米軍に提供するという方法を取る。つまり防衛施設局長と土地所有者との間で賃貸借契約が締結された後、防衛施設局長は、土地所有者から上地の提供を受け、これを米軍に引き渡す形となる。