2014年5月22日木曜日

特別公的管理通告

硬く口を結んで東郷重興日本債券信用銀行頭取(当時)は、暗い影のなかから現れた。待ち構えていたおびただしい数の報道陣にもみくちゃにされながらも、周囲の様子など目に入らないかのごときで、言葉を発するそぶりさえ見せず、無言のまま黒塗りの車のなかに姿を消した。

一九九八年十二月十二日土曜日、正午をわずかに回っていた。東郷は、いましがた背後にそびえる総理府の一室で、竹島一彦総理府臨時金融再生等担当室長(内閣内政審議室長)から、「信じがたい」言葉を投げかけられたばかりだった。

「日本債券信用銀行に対して、金融再生法三六条に基づき、特別公的管理(一時国有化)への移行を通告する」それは、五七年に国策銀行として設立されて以来、四十二年にわたる日債銀の「幕引き」を意味する言葉だった。

特別公的管理への移行は、日債銀が初めてのケースではなかった。これに先立つ十月二十三日、日本長期信用銀行がすでに国有化されていた。ただ、その経緯を日債銀の場合と単純に重ねることはできない。長銀の場合は、株式市場に翻弄された挙げ句、信用不安が拡大し、自ら白旗を上げた。

日債銀は違う。少なくとも表面上は、株価も小康状態を保っていたし、当面の資金繰りにも不安はなかった。また、日債銀は「表向きの数字」を整えてもいた。この国有化通告のわずか二十日前に、九九年九月期の中間決算を発表したばかり。そこでは百億円の黒字が計上されていた。それにもかかわらず、金融監督庁は「ルールによる判断」で押し切ったのだ。

2014年5月2日金曜日

財政再建という政策目標

これも財政再建ムードを浸透させる一つのきっかけになって、八三年から八七年にかけて一般歳出を前年同額以下にするなど徹底した歳出の節減合理化が図られた。それは財政体質改善のためやむをえぬ過程ではあったし、当時の内閣(鈴木・中曽根)の最大の政治課題でもあった。ただ、たしかに、このような要請が財政政策と金融政策のポリシーミックスを決定していく上で一つの制約になっていた面があったことも否定できないだろう。

こうした財政再建ムードの中ではあったが、円高不況の深刻化に伴い、内需を中心とした景気の着実な拡大、対外不均衡の是正といった要請が強まった。そのため、八六年九月に総合経済対策(総事業規模約三兆六〇〇〇億円)、八七年五月に緊急経済対策(同約六兆円)が打ち出された。この政策については、発動のタイミングが遅れたとの批判がある一方、景気が回復してきた八七年五月に相当規模の経済対策が行われ、バブル発生の一因となったとの指摘もある。理論的には、おそらくもっと早めに思いきった財政上の景気対策を打ち出し、そしてもっと早めにそれを打ち切る決断をすべきだったのだろう。

金融政策についても述べたように、経済情勢の認識から経済政策の効果が発現するまでのタイムラグの存在は、経済政策を判断する上で難しい問題である。世論も、目に見える景気対策を催促する。これを制するのは、政治家にとって大変な難題となる。

そもそも財政再建という政策目標の取り扱い自体、極めて難しい。九六年以降の推移を見ても、政・財界、マスメディアを問わず財政再建は国民的コンセンサスとなり、歴代首相、蔵相から成る財政再建顧問会議まで開いて政治的意思決定をしたものの、不況が深刻化するとそのような経緯は忘れられがちである。今後景気が回復過程に入った後も、いつ健全化への政策転換を図るのか、それについて誰が責任を負うのかは、難しい問題として残るだろう。