2014年6月3日火曜日

罪の意識の英会話

誰でも知っているように会話の学習は一般的にいって、男性よりも女性が、年長者よりも年少者の方が有利である。この一般原則に従うと私は不利な立場にあった。しかしここで文句を言っているわけにはいかない。私はいわば耐え難きに耐え、忍び難きを忍んで毎、米会話の勉強に通った。そういう努力を重ねていたある日、私は教室に坐っていた自分が、無意識にロシア民謡をロずさんでいるのに気づいて仰天した。

私はなぜ米会話の練習の最中にロシア民謡などをロずさんでいたのであろうか。あれはアメリカ語の、しかも会話の勉強をするということに、私か心の底で罪の意識を持っていたためであったのだろう。その罪の意識を打ち消すために、私は必死になってロシア民謡を口ずさんでいたのであろう。私が歌っていたのは、学生のとき左翼系の「歌ごえ運動Lの合唱練習で習い覚えた曲であった。

ともかく一年間、四谷の日米会話学院に通いつめたおかげで、私はフルブライト交換留学生の試験に通り一九六三年の夏、留学生としてアメリカに向った。当時のジェット機は少し気象状態が悪いと、ハワイには直航しなかった。そして私たちの飛行機もまずウェーク島に飛んだ。

太平洋戦争中、日本軍が占領して一時、大鳥島と呼ばれたことのあるこの島では、戦後十八年も経つというのに、日の丸を船腹に描いたまま座礁した、日本の輸送船がこれ見よがしに放置してあった。またホノルル空港に着陸する前には、戦争中に写真で見なれたパールーハーバーを空から見ることもできた。つまり私はアメリカという外国に来たのだというよりは、かっての敵国に来たという意識を強く持って、アメリカに入国したのである。