加えてケネディ大統領は、大統領行政命令を改正して、米民政官を現役の軍人から文官に改、めることなどの施策も講じた。むろん、大統領の打ち出した新機軸は、先にふれたケイセン調査団の勧告に基づくものであった。ところで、この頃、日米安全保障条約が、沖縄には適用されていなかったこともあって、ベトナム戦争に対して、沖縄では、それほど大きな反対運動は起きていなかった。しかし、長崎の佐世保基地と同じように、沖縄でも基地従業員たちは、戦死したアメリカ兵の死体を洗わされたり、遺体を袋に入れて米本国に送還する作業などもやらされていた。一部の港湾荷役の組合員たちが、LSD(上陸用舟艇母艦) へのベトナム向け物資の荷役を拒否したりしたが、大した盛り上がりにはならなかった。
ベトナム戦争当時、米軍基地周辺の繁華街は、ケバケバしいネオンがこうこうと輝き、「バケツで金を運んだ」といわれるくらい繁盛を極めたという。しかし、それはまたこのうえなく殺伐としたにぎわいでしかなかった。明日死ぬかもしれないという思いで自暴自棄に陥った若い米兵たちが、休暇で沖縄基地に戻ると、有り金を全部使い果たしたからだ。兵士たちは、休暇とはいえ、一瞬たりとも心理的緊張をゆるめることはできなかったようだ。基地周辺でバーを経営していたある女性は、「戦場より休暇で沖縄に来た兵士達は、死の恐怖におびえていて、何気なく後ろから肩でもたたこうものなら、反射的に戦場での仕草で自分の身を守る構えをしたものです」と記録している。
復帰時点のいろいろな記録を読み返すと、いかにして沖縄に安保条約を適用するかについて、ずいぷんと議論されている。それまで沖縄には、核も自由に配備できただけでなく、基地の使用毛自に田であった。それだけに、この条約を適用することによって、日本本土と同じように拘束されるのは好ましくない。というのが米軍側の考えであったからだ。これに対し、地元住民は、一日も早く米軍の不当な統治から脱却して、日本へ復帰することに望みをたくしていた。
しかし、いざ沖縄が日本への復帰を果たしたとなると、今度は、日本政府が、安保条約に基づいて住民の土地を軍用地として米軍に提供しなければならないことになった。そのため日本政府は、復帰直前の一九七一年一月に「沖縄における公用地等の暫定使用に関する法律」(略称「公用地暫定使用法」)を制定し、翌年五月一五日の復帰と同時にこれを施行した。この法律は、契約を拒否する地主の土地に対して、強制的に使用する措置を認めたものであった。したがって、復帰後、軍用地の大半は、形のうえでは日本政府と地主との「賃貸借契約」の関係となったが、その実質的内容は、復帰前とほとんど変わることはなかった。
日本政府が米国に提供している駐留軍用地は、前章でも述べたように、安保条約第六条及び日米地位協定の第三条と第四条の規定に基づいて提供されている。日本政府が米軍に土地を提供する場合には、原則として、日本政府(防衛施設局)がまず上地所有者と当該土地の賃貸借契約を締結して使用権原を取得し、米軍に提供するという方法を取る。つまり防衛施設局長と土地所有者との間で賃貸借契約が締結された後、防衛施設局長は、土地所有者から上地の提供を受け、これを米軍に引き渡す形となる。
2015年2月4日水曜日
歯止めと逆転のためには
少子化・高齢化への対処策を「負担増か福祉レベルの切り下げか」だけの袋小路に追い込んでしまわないほとんど唯一の脱け道が、男権社会遺制の打破などをもとに、出生率の回復をはかることである。
産みたくない者に産めと強制することはできないし、すべきでない。ただ、住宅の量・質などの生活条件も含めて、現在の日本に「産みたくても産めない」「産む気になれない」と思わせるような不合理な阻害要因があるなら、これを取り除くことは、それこそ政治であり政策である。
先に引用した八代尚宏氏らの研究は「少子化は社会的病理の表れ」であるとし、特に女性の社会的地位と出生率との相関関係についての先進各国間の比較を次のように要約している。
「女性の経済的地位の向上に対応できない、企業や家庭における伝統的な制度・慣行が根強い国ほど、子育てを担う家庭の機能の低下が著しく、出生率の低下の度合は大きい」
「女は家庭を守れ」と決めつけるような男権社会遺制は、日本における税制や年金制度など、「家族・家庭」単位に成り立っている仕組みを中心に考えると、必ずしも「男が悪い」ばかりではあるまい。
男権遺制を改め、出産、育児にかかわる女性への不合理な負担をなくしていくことを通じて出生率の回復をはかるには、男女の性差を超えた、日本の社会全体の合意を広げていかねばならないのである。
産みたくない者に産めと強制することはできないし、すべきでない。ただ、住宅の量・質などの生活条件も含めて、現在の日本に「産みたくても産めない」「産む気になれない」と思わせるような不合理な阻害要因があるなら、これを取り除くことは、それこそ政治であり政策である。
先に引用した八代尚宏氏らの研究は「少子化は社会的病理の表れ」であるとし、特に女性の社会的地位と出生率との相関関係についての先進各国間の比較を次のように要約している。
「女性の経済的地位の向上に対応できない、企業や家庭における伝統的な制度・慣行が根強い国ほど、子育てを担う家庭の機能の低下が著しく、出生率の低下の度合は大きい」
「女は家庭を守れ」と決めつけるような男権社会遺制は、日本における税制や年金制度など、「家族・家庭」単位に成り立っている仕組みを中心に考えると、必ずしも「男が悪い」ばかりではあるまい。
男権遺制を改め、出産、育児にかかわる女性への不合理な負担をなくしていくことを通じて出生率の回復をはかるには、男女の性差を超えた、日本の社会全体の合意を広げていかねばならないのである。
2015年1月7日水曜日
親になるための教育を
時と場合を考えて行動するという能力は、人間として大切なものであるから、是非とも教えてほしい。これは原理を具体的な場合に応用するという、父性的な能力をつけるという意味でも大切な観点だと言うことができる。この観点は古記のアンケート調査のたいていの項目に当てはまる。最後に、教えるのが最も難しいが、「人間としての品位」ということも、基準として入れたいと思う。ここまでくると、小学生や中学生には難しいとは思うが、しかし完全には分からなくても、そういうことが大切なこととしてあるのだということを先生は語るべきである。いけない理由として、単に「他人に迷惑だから」というだげでなく、もっと人間として大切な「品位」とか「美しさ」「礼儀」「気品」「ふさわしい」などという観念を導入したいものである。こういうことを説明するのは、たいへん難しいことではあるが、それを避けていては、人間としての教育は成り立だないと思う。我々はもっと抽象的な徳目の教え方について研究をしなければならない。
個々の規則を定めてそれを形式的に守らせるという教育の方法ではなく、抽象的なモラルの原理を教えて、それを日常生活に応用する訓練をするというのは、父性を育てる上で非常に大切なことである。教師を育てる課程の中に、そういう徳を教える教授法を入れるべきである。道徳教育は反動だなどという間違った考えによって、大学の教育学部の課程の中に、そういう訓練が導入されていないということが、大きな問題だと思われる。道徳教育というと、命の大切さを教えるとか、自然にふれる体験をさせる、友だちと協力して何かをする、といった内容がうげる世の中である。いわばソフトな内容なら、受け入れられる。それは、今の若い女性が、結婚の相手として「男らしい人」とは決して言わないで、必ず「優しい人を」と言うのと、どこか共通のものが感じられる。しかしそれは女性的、母性的感覚からの発言であり、父性的な倫理の感覚ではない。
もちろん命の大切さや優しさを教えることは大切である。しかし言うなればそれは母性原理からの人間教育であり、父性原理からする道徳教育とは言いがたい。父性原理からする道徳教育とは、人間としての品位を保ち、欲望や感情のコントロールをし、善悪の区別をつける力を養うことである。とくに、してよいことと、絶対にしてはならないことの、げじめを教えることは最低限必要なことである。これは単に優しさだけではなく、父性的な厳しさを必要としている。善悪を教えると言うと、すぐに価値観は人さまざまで、何が善くて何が悪いかは簡単には言えないから、そういうことは教えるべきではないと反論する人がいる。しかし善悪の区別を教えるとは、具体的に何が善い、何が悪いということを教えるというよりは、善悪の区別というものがあるのだということを教えることである。
その例として、最低限人間として守るべき徳目を教えると同時に、具体的にいろいろなケースを出して、生徒に討論させ、考えさせるという教育がなされるべきである。日本人が父性を取り戻すためには、今、学校教育の中にもっと父性原理を導入すべきである。子どもを育てる親としての仕事は、じつは非常に高度な専門的な仕事である。誰でもやっているから、誰にでもできることだと思うのは錯覚である。誰もがやっていても、その仕事を正しく上手にやっているわけではない。その証拠には、子どもが不良になったり、不登校になったり、いじめつ子になったり、心身症を起こしたり、子どもに背かれたりと、親子の関係がうまくいっていない家族のほうが多いくらいである。子どもの育て方に失敗したと述懐する人は非常に多い。子どもの育て方について教えてくれる人がいない、教えてくれる機関がないのである。
個々の規則を定めてそれを形式的に守らせるという教育の方法ではなく、抽象的なモラルの原理を教えて、それを日常生活に応用する訓練をするというのは、父性を育てる上で非常に大切なことである。教師を育てる課程の中に、そういう徳を教える教授法を入れるべきである。道徳教育は反動だなどという間違った考えによって、大学の教育学部の課程の中に、そういう訓練が導入されていないということが、大きな問題だと思われる。道徳教育というと、命の大切さを教えるとか、自然にふれる体験をさせる、友だちと協力して何かをする、といった内容がうげる世の中である。いわばソフトな内容なら、受け入れられる。それは、今の若い女性が、結婚の相手として「男らしい人」とは決して言わないで、必ず「優しい人を」と言うのと、どこか共通のものが感じられる。しかしそれは女性的、母性的感覚からの発言であり、父性的な倫理の感覚ではない。
もちろん命の大切さや優しさを教えることは大切である。しかし言うなればそれは母性原理からの人間教育であり、父性原理からする道徳教育とは言いがたい。父性原理からする道徳教育とは、人間としての品位を保ち、欲望や感情のコントロールをし、善悪の区別をつける力を養うことである。とくに、してよいことと、絶対にしてはならないことの、げじめを教えることは最低限必要なことである。これは単に優しさだけではなく、父性的な厳しさを必要としている。善悪を教えると言うと、すぐに価値観は人さまざまで、何が善くて何が悪いかは簡単には言えないから、そういうことは教えるべきではないと反論する人がいる。しかし善悪の区別を教えるとは、具体的に何が善い、何が悪いということを教えるというよりは、善悪の区別というものがあるのだということを教えることである。
その例として、最低限人間として守るべき徳目を教えると同時に、具体的にいろいろなケースを出して、生徒に討論させ、考えさせるという教育がなされるべきである。日本人が父性を取り戻すためには、今、学校教育の中にもっと父性原理を導入すべきである。子どもを育てる親としての仕事は、じつは非常に高度な専門的な仕事である。誰でもやっているから、誰にでもできることだと思うのは錯覚である。誰もがやっていても、その仕事を正しく上手にやっているわけではない。その証拠には、子どもが不良になったり、不登校になったり、いじめつ子になったり、心身症を起こしたり、子どもに背かれたりと、親子の関係がうまくいっていない家族のほうが多いくらいである。子どもの育て方に失敗したと述懐する人は非常に多い。子どもの育て方について教えてくれる人がいない、教えてくれる機関がないのである。
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