国葬が行われる聖パウロ寺院まで、国旗におおわれた棺を乗せて運んだのは軍用トラックである。二棺づつ乗せてゆっくりと進むトラックは、一台ごとにその両脇に一騎づつ、華やかな甲冑姿の騎馬憲兵が護衛して進む。近衛兵としてもよい正装の騎馬憲兵の護衛は、国賓のみが受ける待遇だ。沿道でも騎兵の列がつづき、寺院に到着した棺は、ささげつつと敬礼をする兵士の列に迎えられた。イラクで倒れた男たちは、第一級の軍隊礼を受けたのである。これは、危険も知らずに行った地で巻きぞえを喰った「犠牲者」への待遇ではない。危険も覚悟のうえでの職務遂行中に倒れた、「戦死者」への待遇である。だがこれが日本に伝わると、「犠牲者」になってしまうのだった。
朝鮮戦争の頃からだから、平和の確立や維持が目的の海外派兵には、イタリアはすでに五十年の実績をもつ。死者は、五十年という歳月を考えれば驚異的とするしかないほどに少ない。だからイタリア人は、戦死者を迎えるのに慣れているわけではなかった。それでも、いざ死者が出たとなると「戦死者」と呼んで誰もが不思議に感じないのは、海外派兵そのものには慣れているからだろうか。反対に日本では、記者たちの頭の中でも少しの抵抗もなく、「戦死者」というイタリア語が「犠牲者」という日本語に変わってしまうのは、日本がこの五十年間、そのような行為に無縁で過ごしてきたからであろうか。
私にはなんとなく、「犠牲者」と呼んだのはマスコミだけではなく、首相や官房長官の口からも出だのではないかという気さえしている。せめて防衛庁長官ぐらいは、「戦死者」と呼んでくれたであろうか。だが、もしも日本中が「犠牲者」オンリーだったとすれば、それは日本では、言ったり書いたりする側もなに気なく「犠牲者」という言葉を使い、それを聴いたり読んだりする側も、なに気なく聴き流しているからにちがいない。
しかし、その日本も海外派兵の体験をはじめようとしている。仮りに不幸にも自衛隊員に死者が出たとしたら、そのときでも日本人は、「犠牲者」と呼び書くのであろうか。イラクに派遣する自衛隊員は戦争をするために行くのではないから、たとえ倒れても「戦死者」とは言えないとでもいう理由で。イタリア兵だって、イラクには英米による戦闘が終了した後に行ったのである。職業には貴賤はないと信ずる私だが、職務の果し方には貴賤の別は厳としてある、とは思っている。ということは、私もその一人であるシビリアンには各人各様の誇りがあるのと同じで、ミリタリーにも彼らなりの誇りがあるのは当然だ。巻きぞえを喰った結果である死ではなく、覚悟のうえの死、とでもいうふうな。
その軍人が戦地で倒れた場合、その彼らを、無差別テロで倒れた市民と同じように「犠牲者」と呼ぶのは、この人々に対して礼を失することではないだろうか。軍人ならば、「戦死者」と呼んでこそ、彼らの誇りを尊重することになるのではないか。日本に帰国中に読んだ新聞の記事に、自衛隊員は政治の駒か、と題したものがあった。私だったらこれに、次のように答える。そう、軍隊は国際政治の駒なのです、そして、駒になりきることこそが、軍隊の健全さを保つうえでの正道なのです、と。それゆえに、軍務に就いている人の誇りを尊重する想いと、その軍務は国際政治の駒であるとする考えとは、少しの矛盾もないと思っている。
2015年7月3日金曜日
2015年6月3日水曜日
社外活動やチャリティに不熱心
「相手に仕事でメリットを落とす」「それ言顧客に満足してもらう」「しかも原則的に」年以内にそれを実行する」。この三つの姿勢が外資系では徹底して求められるといっても過言ではない。CSR(企業の社会的責任)に真面目に取り組むようになり、それを怠ると罰せられる。日本企業のCSR(企業の社会的責任一コーポレートーソーシャルーレスポンシビリティ)レポートを読むと、そのほとんどが「環境に優しい自社製品の紹介」か「社員のボランティア活動」で占められている。CSRを「環境とボランティア」と割り切っているのはある意味で見事だが、本来の海外でのCSRにはもっと多様な活動が含まれている。例えば「職場を巡る人間関係の改善」や「社員の多様性の追求」といったテーマだが、日本企業ではそうしたテーマはCSRの枠外にあり、「取り組むのはよいことだが大真面目に議論するのは時問の無駄」といった雰囲気がある。
これは経営者の意識の問題だが、「良い製品を作って利益を仁げていればいい」という時代ではもはやない。社会と共生するとか、多くの多様な人材を登用し活躍の場を与える(外国人、女性、中高年などにも役員や部長への道をひらく)といったテーマが、外資系企業では単なるお題目ではなく、真剣に取り組んでいるのが日本企業との大きな違いだ。もちろん全ての外資系企業がこの点で優等生だというっもりはないが、日本企業の平均レベルよりも、在日外資系企業の平均点のほうが優れていることはほぼ間違いない。
利益至上主義とCSRが矛盾しない理由-外資系の「罪の文化」こうした利益追求以外の経営テーマがあることと、今まで述べてきた収益至上主義は矛盾しないのだろうか。そう思う読者の方もいるかもしれない。実は矛盾しない。なぜなら、日本が「恥の文化」と言われるように欧米には「罪の文化」という側面が確かにあるからなのだ。罪を意識する、すなわち自分をはるかに超えたところに審判者(神)がいるという潜在意識は、「悪いことをすればその分だけ良いことをして補わなければならない」という強迫観念を生む。利益、利益で社員にプレッシャーを掛けている外資系であるがゆえに、利益以外の「良いこと」も必死で推進しないと精神のバランスが取れないのである。
ロックフェラーやフォード、メロンといったアメリカの著名な財閥は、社会奉仕活動を昔から熱心に行なっている。「汚く」儲けた金を「綺麗に」使うという風習が社会に根付いているのである。これはヨーロッパやアジアでも同様だ。イギリス人、華人などはあこぎに儲ける人ほど、陰徳を施す傾向がある。従って、企業利益を追求するのと同じ程度の真剣さでCSRなどの多様な社会的テーマ年取り組むのである。外資系でこれを「くだらん、時問の無駄」と軽視したり、無悦していると、極端なときには「人問失格」という熔印まで押されてしまう。その結果、人間としてこの会社に置いてはおけないと、クビになることさえあるのだ。
解雇まで至らずとも、「社外活動やチャリティに不熱心」という評判が、微妙に昇進や昇格に影響をケえ、合併や買収などの修羅場では生死(つまり残れるか、残れないか)を分けることがある。会社が外資系に変わったら、女性の積極登用や地城社会との対話などを馬鹿げたことだと思わず、会社の方針に従って真面目に取り糾まないと、少なくともその振りぐらいはしないと、あなた自身が軽蔑され、上から対話を拒杏されるようになるかもしれない。喫煙や飽食が戒められ、健康管理ができない社員にはペナルティが与えられる。遅ればせながら喫煙天国の口本でもオフィス内分煙が進展し、会社によってはオフィス内完全禁煙を実行するようになってきた。しかし、まだ多くの日本企業では、オフィスのどこでタバコを吸おうが白山気ままの状態だ。
これは経営者の意識の問題だが、「良い製品を作って利益を仁げていればいい」という時代ではもはやない。社会と共生するとか、多くの多様な人材を登用し活躍の場を与える(外国人、女性、中高年などにも役員や部長への道をひらく)といったテーマが、外資系企業では単なるお題目ではなく、真剣に取り組んでいるのが日本企業との大きな違いだ。もちろん全ての外資系企業がこの点で優等生だというっもりはないが、日本企業の平均レベルよりも、在日外資系企業の平均点のほうが優れていることはほぼ間違いない。
利益至上主義とCSRが矛盾しない理由-外資系の「罪の文化」こうした利益追求以外の経営テーマがあることと、今まで述べてきた収益至上主義は矛盾しないのだろうか。そう思う読者の方もいるかもしれない。実は矛盾しない。なぜなら、日本が「恥の文化」と言われるように欧米には「罪の文化」という側面が確かにあるからなのだ。罪を意識する、すなわち自分をはるかに超えたところに審判者(神)がいるという潜在意識は、「悪いことをすればその分だけ良いことをして補わなければならない」という強迫観念を生む。利益、利益で社員にプレッシャーを掛けている外資系であるがゆえに、利益以外の「良いこと」も必死で推進しないと精神のバランスが取れないのである。
ロックフェラーやフォード、メロンといったアメリカの著名な財閥は、社会奉仕活動を昔から熱心に行なっている。「汚く」儲けた金を「綺麗に」使うという風習が社会に根付いているのである。これはヨーロッパやアジアでも同様だ。イギリス人、華人などはあこぎに儲ける人ほど、陰徳を施す傾向がある。従って、企業利益を追求するのと同じ程度の真剣さでCSRなどの多様な社会的テーマ年取り組むのである。外資系でこれを「くだらん、時問の無駄」と軽視したり、無悦していると、極端なときには「人問失格」という熔印まで押されてしまう。その結果、人間としてこの会社に置いてはおけないと、クビになることさえあるのだ。
解雇まで至らずとも、「社外活動やチャリティに不熱心」という評判が、微妙に昇進や昇格に影響をケえ、合併や買収などの修羅場では生死(つまり残れるか、残れないか)を分けることがある。会社が外資系に変わったら、女性の積極登用や地城社会との対話などを馬鹿げたことだと思わず、会社の方針に従って真面目に取り糾まないと、少なくともその振りぐらいはしないと、あなた自身が軽蔑され、上から対話を拒杏されるようになるかもしれない。喫煙や飽食が戒められ、健康管理ができない社員にはペナルティが与えられる。遅ればせながら喫煙天国の口本でもオフィス内分煙が進展し、会社によってはオフィス内完全禁煙を実行するようになってきた。しかし、まだ多くの日本企業では、オフィスのどこでタバコを吸おうが白山気ままの状態だ。
2015年5月8日金曜日
東アジアでは契約観念がきわめて薄い
日本も他の東アジア諸国・地域も、太平洋の向こうにアメリカの巨大市場があるために、雑貨や衣料品、簡単な機械器具などから始まって、次第に中級品から高級品を輸出するようになり、めざましい経済発展をとげたのであるが、最後に中国が登場し、東アジアとアメリカとの経済関係は、いよいよ大規模・緊密となり、世界経済のなかの東アジアの重みがさらに増すことは確かである。アメリカの影響はたんに技術や市場にかかわるだけではない。欧米の企業が商業取り引きにかかわる法律のもとで契約書を作成し、法律にしたがって契約を守り、法律で契約が保護されているのに対して、東アジアでは、その契約観念がきわめて薄い。一九九八年八月の新華社の報道によると、共産党中央と国務院は金融リスク問題を非常に重視して、金融界の貸し付け管理の強化を要請した。
それにもとづいて中国銀行は、融資や保証や担保、債権移転等々について、貸し出し契約にかかわる法律の原文と一つ一つ対照して取り決め、契約が法律の保護を受けられるように、業務を改善しつつあるという。中国でも法律はあるが、それを知らず、あるいは無視して取り引きが行われてきたケースが少なくないことが、この報道で分かる。また中国農業銀行は、融資を利用して株式・先物取り引きを行っている企業や、国の法律や産業政策で禁止されているプロジェクトを強行している企業に対しては、新規融資を中止し、未返済の旧債権を徐々に回収しているとも書いている。
それにもとづいて中国銀行は、融資や保証や担保、債権移転等々について、貸し出し契約にかかわる法律の原文と一つ一つ対照して取り決め、契約が法律の保護を受けられるように、業務を改善しつつあるという。中国でも法律はあるが、それを知らず、あるいは無視して取り引きが行われてきたケースが少なくないことが、この報道で分かる。また中国農業銀行は、融資を利用して株式・先物取り引きを行っている企業や、国の法律や産業政策で禁止されているプロジェクトを強行している企業に対しては、新規融資を中止し、未返済の旧債権を徐々に回収しているとも書いている。
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